有田焼の歴史

有田焼は1616年から続く日本初の国産磁器です

有田焼が誕生する少し前の時代

1573年~1590年、戦国時代。武将たちは天下を取るために戦を繰り広げていました。侍たちは戦の合間に茶の湯に興じることで、戦で疲れた精神を癒していました。まだ日本では磁器を焼くことができず、茶道具として使われていたのは、陶器でした。中国や朝鮮から輸入された素晴らしい磁器は一部の上層階級だけのもので、最上級の茶器は領地や城と交換されるほどの価値がありました。

焼き物戦争

1590年、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。1592年に秀吉は軍を率い、明(現中国)およびその朝貢国である李氏朝鮮の軍と朝鮮半島を舞台に戦いました。1598年、秀吉が病死したことにより日本軍が撤退することが決まりました。その時に諸大名は朝鮮半島の陶工たちを日本に連れ帰ったことから、「焼き物戦争」とも呼ばれます。佐賀藩主鍋島直茂は数人の陶工を連れ帰るとすぐに朝鮮人陶工たちに磁器の製造を研究させました。

日本で最初の磁器、有田焼の誕生

1616年、李参平(金ヶ江三兵衛)が有田に良質な陶石を発見し、磁器の安定的な生産を開始しました。参平が日本に来て磁器の研究を始めてから生産開始まで18年もかかりました。それだけ磁器を製造は難しいことでした。400年以上前、海外から来て言葉も通じない異国の地で磁器の原料の陶石を見つけ、生産方法を確立した偉業には感服するばかりです。李参平はリーダーシップも備えた人物だったようで、陶工120人を統率する有田のリーダーとなりました。その功績から、李参平は有田町の陶山神社に「陶祖」として祀られています。李参平の残した日記によると、李参平は慶長の役の際に鍋島直茂の軍勢の道案内をしたと記録されています。そして、佐賀軍撤退の際、敵の手助けをしたことで、李参平らが報復を受けるのではないかと心配した直茂が、李参平とその一族を日本に連れてきたと伝えられています。

環境問題が有田焼を最高級品にした

1637年、磁器の生産が軌道に乗り、生産量が急増したことで新たな問題も生じてきました。磁器を焼くには1300度の高温で3日3晩、窯の火を燃やしつづけなければなりません。それには大量の薪を必要とするため、有田焼の生産量が増えるとともに山が荒れるようになったのです。樹木の乱伐は土砂崩れや河川の氾濫を招き、麓の村や平野部の農業を台無しにしてしまいます。人々にとって環境保全は磁器産業よりも重要な問題でした。乱伐を防ぐため、佐賀藩主は高度な技術を持つ陶工だけを残し、826人を追放します。窯場も有田の中心地区の13カ所だけに絞られ、年間の生産数量も制限し、環境保全を最優先としました。このことにより有田焼は限られた生産数で最高級品を生産するようになりました。

明王朝の滅亡と有田焼の高度技術化

1641年から1661年にかけ中国では明王朝と清王朝による内戦により磁器の生産が滞ります。この内戦により中国から多くの名工たちが有田に逃げて来ました。当時世界最高だった中国の技術を使った芸術的な作品が有田で生み出されるようになります。

ヨーロッパへの輸出開始

1644年から1684年まで中国では内戦により磁器のヨーロッパへの輸出が止まってしまいます。そして有田が中国に替わり、磁器の世界最大の産地となります。1659年、オランダ東インド会社が初めて有田焼のヨーロッパ輸出を開始しました。有田焼は伊万里港から輸出されたため、欧州ではIMARIと呼ばれます。ヨーロッパで有田焼は黄金と同じ価値が付けられ、輸出額は急速に増加しました。

磁器病

1670年~1700年代、ヨーロッパ中の王族や貴族が有田焼の収集に巨額の富を注ぐようになります。その熱中ぶりは「磁器病」と呼ばれました。ザクセン選帝候アウグスト強王(ポーランド王)は、ツヴィンガー宮殿の「日本宮Japanese Palace」のすべての部屋を磁器で埋め尽くそうとしました。ザクセン選帝候アウグスト強王は、マイセンで磁器の開発を行い、1710年、ヨーロッパ初の磁器であるMEISSENが誕生しました。その後、ヨーロッパではフランスやイギリスなど多くの磁器窯が誕生しました。現在でも、IMARIやKAKIEMONなどの有田焼のデザインを模倣した絵柄が定番の柄として使用されています。

禁裏御用達

1706年、仙台藩主の伊達綱宗が霊元天皇に有田焼を献上しました。霊元天皇は有田焼の美しさに大変喜びになり、有田焼の窯元を禁裏御用達に指定しました。今日までに300年以上、数多くの有田焼が天皇家に献上されました。

泰平の世と芸術の開花

日本では1600年から1853年までの253年間全く戦争の無い奇跡的な平和の時代が続きました。この時代に数多くの芸術作品が生まれました。上層階級しか手にすることができなかった磁器は1800年代には庶民にまで行き渡るようになり、食卓を彩ります。歌川広重や歌川豊国といった江戸期の著名な浮世絵師の絵に描かれた食器や料理は豊かな食文化を物語っています。今日、世界中で人気を博し、ユネスコの無形文化遺産にも登録された日本食ですが、そのほとんどがこの時代に確立されたものです。見た目に美しく、薄くて丈夫、機能的にも優れた有田焼は、日本がいまなお世界に誇る食文化の発達に大いに貢献したのです。

有田焼がジャポニズムを起こした

1853年、オランダ、中国、朝鮮とのみに貿易を制限してきましたが、世界各国と自由貿易を開始しました。アメリカから日本との通商条約を締結しに来日したペリー提督は、有田焼を見て次のような言葉を日記に残しています。「日本人はきわめて勤勉かつ器用な民族であり、製造業の中には、他国の追随を許さないほど優れたものもある。日本人は磁器製造を得意とし、日本製の磁器は非常に繊細で美しいものである。」自由貿易を機に世界各地に有田焼が輸出されました。有田焼が輸出される際の包装紙として葛飾北斎や歌川広重の浮世絵が使用されました。これにより浮世絵がヨーロッパで広く知られ、ゴッホやモネ、ルノワールなどの芸術家に影響を与えました。ルイ・ヴィトンの「ダミエ」や「モノグラム」もジャポニズムの影響を受けこの頃に誕生しました。

万博への出展

1867年、ナポレオン3世からの招聘が届き、第2回パリ万国博覧会に初めて日本ブースが万博に出展しました。日本ブースでは有田焼が展示され日本の国際社会へのデビューを有田焼が華やかに飾りました。1873年、ウィーン万博から日本は政府として正式に万博に参加します。ここでも日本の最高の工芸品として有田焼が展示されます。1876年、アメリカで開催されたフィアデルフィア万博にも有田焼が出展しました。有田焼は名誉大賞を受賞、(深海墨之助や辻勝蔵などの)名工たちの作品が金牌賞状を受賞しました。1878年、第三回パリ万博では、242点の有田焼が受賞しました。たった数日でフランスの収集家たちは日本ブースの有田焼を全て買い付けていきました。ジャポニズムのブームと共に、その後10年で輸出額は2.7倍になりました。

有田焼と産業革命

現在、日本製セラミックスは世界シェアの40%を占め、世界の最先端を牽引しています。セラミックスは食器の他に半導体や自動車に使用されます。なぜ日本のセラミック産業は現在のような発展を遂げたのでしょうか。1869年、21歳で博士号を取得したドイツ生まれの若き天才ワグネルが来日します。当時、ドイツとフランスはFranco-Prussian Warの最中で、その他のヨーロッパ諸国でも政変が多く、36歳のときにアメリカ人事業家と石鹸工場をつくるために長崎にきました。1869年、石鹸事業に失敗し失業したワグネルは、ウォールド商会に雇われます。ウォールド商会でのワグネルの仕事は、輸出向けの磁器を買いつけることでした。ワグネルは有田焼の技術力の高さに驚き、有田焼をセラミックス工業に応用することを提案します。産業革命により電気の時代になり、有田焼で電線部品の碍子を生産するようになります。産業革命により多くの人の手による伝統工芸品が大量生産品にとって代わりましたが、有田焼は碍子の製造で得た資本で、さらに高度な工芸品を製作することができるようになりました。近代工業により知識を得て、より安定的な生産性と創作の自由度を求め、原料の陶石にはじまり、磁器としての完成形に至るまで、様々な知識の集積と経験、技術を向上させ、一つの製品をより高品質に仕上げるための生産体制が確立したのです。

有田陶器祭り

1915年、年に1回行われていた厳格な陶磁器品評会は、第19回目にお祭りに変わります。今では毎年100万人が訪れる巨大なお祭りになりました。1917年には有田焼誕生300周年を記念して李参平の功績を称える巨大な碑が建立されました。

近代の有田焼

1966年、有田焼350周年を記念して佐賀県立九州陶磁文化館の建設が始まりました。現在、有田には15の磁器博物館があります。また、窯業大学校の新設や窯業試験場の移転改築など技術レベルを向上させる事業も行いました。1996年、『ジャパンエキスポ佐賀 ’96世界・焱の博覽会(世界焱博)』が開催されました。皇室関係者や著名芸能人、スポーツ関係者等も来訪するなどして報道機関の話題を呼び、255万人も来場しました。2016年、有田焼の誕生から400年を記念して、大英博物館で有田焼の特別展が開催されました。

引用元ARITA EPISODE2 – 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. – http://arita-episode2.jp/ja/history/index.html